“吉備の国”
岡山県はその昔、備前・備中・備後・美作に分けられる以前に「吉備国(きびのくに)」と呼ばれていた。雨が少なく温暖な気候と南部に広がる広い沖積平野が、吉備の文化を生み、そして育ててきた。そして、この吉備と呼ばれていた地域は旧石器時代からも人類が足跡を残している。
弥生時代中期には、吉備の各地に稲作が急激に拡大し、吉井川、旭川、高梁川の下流デルタ地帯を中心の稲作を中心とする村が形成された。そして、弥生時代の終わり頃には、肥沃な沖積平野の開墾により、吉備地方に一大文化圏が生まれた。
吉備地方には、稲作農耕を支えるもう一つの要素があった。鉄資源である。中国山地の風化した花崗岩地帯は、多くの砂鉄を含んでおり、当時の「たたら製鉄」の生産量では、吉備は出雲をしのぐ一大産地だったと推測されている。効率の悪い石器に代わって鉄製の鎌や鍬、鋤といった農業土木用具をいち早く普及させたこの地方の農耕は、飛躍的に効率を増加させた。
古墳時代の吉備は、こうして得た豊かな経済力で多くの人口を支え、やがて畿内のヤマトに対抗しうる吉備王国の出現を可能にした。
本館常設の桃太郎シアター
吉備津彦神社
“温羅伝説”
現在の岡山県総社市を中心とする吉備路を旅する場合、大吉備津彦命、大吉備日子彦命という名を耳にする。いずれもオオキビツヒコノミコトと読み、その時代のヒーローであったようだ。その証として、吉備の中山の東麓にある備前一宮の吉備津彦神社、同じく吉備の中山の西麓に鎮座する吉備津神社では吉備一族の祖神としてオオキビツヒコノミコトが祀られている。
その昔、吉備の国で山に城を築き、傍若無人をはたらいていた温羅を退治しようとキビツヒコノミコトが立ち上がった。いよいよ温羅と戦うこととなったミコトだが、もとより鬼神のごとく強さの温羅であるから、戦えばその勢いはすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐねた。そこでミコトは強弓でもって同時に二本の矢を放ったところつと、これがまったく温羅の不意をつき、一本は外れたが、もう一本は見事に温羅の左眼に命中し、流れる血潮が流水のごとくほとばしった。
さすがの温羅もミコトの一矢にたまらずたちまち雉(きじ)と化して山中に隠れたが、ミコトは鷹となってこれを追いかけたので、温羅はまた鯉と化して血吸川(ちすいがわ)に入って姿をくらました。ところがミコトは鵜となってこれを追いかけて捕らえた。
註釈しておくが、桃太郎の童話は、もともと吉備津彦命の逸話とは別のものである。しかし、桃太郎の話は、やはり吉備津彦命と温羅伝説がベースとなって今日のようなストーリーが作られたものと思われる。 吉備津彦命の鬼退治が陸を舞台に繰り広げられているのに対して、桃太郎が鬼を退治する舞台が海である点が違っているが、最近では岡山県が桃の産地である上、吉備(黍)団子とも関わりがあるとして、吉備国の岡山県と桃太郎の童話が強く結びつけられている。
一部諸説文献参考
鬼ノ城
鬼ノ城(きのじょう)は岡山県総社市奥坂の鬼城山にのこる神籠石式山城。国指定史跡。
矢喰神社は吉備路のほぼ中央部、血吸川に沿った水田地帯の中に位置する。境内にある大小5個の花崗岩から成り、鬼ノ城に陣取った温羅が投げた岩と、吉備中山に陣取った吉備津彦命が射た矢が空中ぶつかって落ちた所と伝えられる場所であると言い伝えられている。
矢喰宮
鯉喰神社
鯉喰神社は、矢喰神社から足守川沿いに2キロほど南に下った倉敷市矢部(岡山総社IC から車で約10 分)にあります。
鯉になって逃げる温羅を鵜になって追いかけた吉備津彦命が飲み込んで退治した所と伝えられています。
血吸川~鬼ノ城山から総社市赤浜あたりまで全長約8 キロの河川。温羅伝説では、吉備津彦命の放った矢の一本が温羅の左目に命中した際、あふれる血で川が真っ赤に染まったと伝えられる。
また、鉄穴流しの砂が流出して川床が赤くなったために名づけられたという説も。